池田達生オフィシャルブログ

日本共産党上尾市議

今日は、先日2日に配布した戦争法廃止を求める署名の刈り取り、訪問活動を行いました。

3月の地元の南中学校の卒業式での、卒業生の答辞の合唱構成があまりにも感動的だった。
「この卒業生たちに将来持たせるのは、銃ではない、夢と希望 」と私の署名協力のお願いチラシと、署名用紙をセットにし、約135戸に配布。
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地元の日本共産党の支部のみなさんで訪問しました。36軒、53筆も集まりました。留守のお宅もありましたが、快く署名をしてくださる家が多かった。中には、池田自宅のポストへ入れてくださった方や、すでに家族の分を記入してある方もいました。

訪問先では、上尾道路が最近開通したが、車の音がすごくなった。地域に公園がない、など、改善の要望も出されました。
共産党への要望もだされました。

たくさん署名が集まってみんな元気で、もっともっと、地域の中にはいり、要望、声を聞いていこうと決意を新たにしました。

お疲れさまでした。

この本の、書き出しを見てみよう。
 「1966年3月13日
    僕がフォークソングに興味を持ったのは、昨年(65年)夏ごろからです。」とあります。

私が、あかつき印刷に入社したのは、1965年3月。6月に職場の先輩からアコーディオンを借りて、合唱団白樺のアコーディオン教室に途中入室した。第2期生。中山英雄先生の手ほどきを受けることになった。
渡君と、ほとんど時期を同じくして、渡君は、フォークソングに、私は、アコーディオンを通じてうたごえ運動にそしてロシア民謡に惹かれていきました。

1965年は、東京オリンピックの翌年で、千駄ヶ谷の国立競技場、東京都体育館、渋谷の室内競技場のプールなど真新しかったっころ。

書き始めの続きで
 「最初はフォークソングのメロディーのよさ・心よさに引かれたのです。そのとき、聞いたのは、ブラザース・フォアーのレコードでした。、
そして、バンジョーという楽器に興味をもちはじめたのでした。そして、バンジョーの名手ピート・シーガーの名をしったのです。」
これは、新たな発見でした。

渡君は、ピートシーガー、ジョーンバエズなどアメリカのフォークソングにどんどん引き込まれていった。
私は、音楽のジャンルでは、ロシア民謡に没頭していくのでした。
 今振り返ると面白いですね。同じ屋根の下でアメリカとロシアにスタートの時から分かれていった。

しかし、渡君と私の思い=根っこは一つだったと知りました。書き出しの2ページ目に
 「フォークソングとはただ民謡としてみてしまっては、間違いだということがわかりました。
そして、本当の歌(音楽)とは、われわれ、民衆と固く結びつかなくてはならないというコトを知ってきました。そして、その中で人民の歌を歌いともにたたかっている多くの人々がアメリカにいることを知ったのです。
 彼らは、自ら作詞・作曲をして歌い、また、たたかいの中でうまれた歌をステージで歌いました。そしてそれらの歌は社会の色々な問題を痛烈に批判し、抗議している。そして住みよい社会をつくろうと努力し、たたかっているのです。そして、その代表的な人々がピート・シーガー、ジョン・バエズ、ボブ・デュラン等です。」

まさにうたごえ運動の考え方と同じです。17歳の渡君がこのような明確な文書を書いていることは、すごいですね。

渡君は、よく、取材をしていました。
当時のあかつき印刷は、日本共産党本部の食堂を利用していました。幹部の方々と一緒でした。その中にはアメリカの事情に詳しい方もいらして、渡君はよく話し込んでは、メモを取っていました。その姿は、今もよく覚えています。いろんな専門家から貪欲に知識を吸収している様子が、この本の中でも出てきます。

次回は、渡君とのあかつき生活、またとんでもないいたずらを紹介しましょう。





























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10代後半から、22,23歳ごろまで故高田渡君と青春時代を同じ会社で過ごした。
なぜか、高田君とは馬が合った。

彼のバンジョーと私のアコーディオンが実によく合い、響いた。

仕事を終えた後、アメリカの「赤い河の谷」や、フォスターの名曲を一緒によく弾いた。
もともとアコーディオンの音色は明るい。バンジョーはそれに輪をかけたように倍にも、3倍にも気分を明るくしてくれる。

私は18歳であかつき印刷に入社。翌年渡君が17歳で入社した。
渡君は「文選」という職場。私は、次の工程の「植字」(「ちょくじ」と読む)職場。
原稿を片手に、鉛の活字を1本1本文字がずらりと並んだケース(馬という)から選びだして、小さな木の箱に整理していく仕事が渡君の「文選」の仕事。
次の工程が、「植字」。割り付けにもとづいて、紙面を組み立てる仕事が私の職場。
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最近、高田渡君の本が出版されたことを知人から聞いた。すぐに取り寄せた。
B5判372ページ。「マイフレンド 高田渡青春日記 1966-1969」(高田渡著、高田漣編。河出書房新社)
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驚いた。ともに過ごしたあかつき印刷でのことが詳細に記録されている。悩み、苦労、喜び、そして、フォークソングのことがびっしり記録されている。
登場人物、社内の人間関係、日常の生活、どれもはっきり懐かしく思い出す。
なんと、私「池田くん」も数回登場。

次回から、渡君の思い出、あかつき印刷の仲間たちの思い出を少しづつ紹介していきます。


















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今日は娘の引っ越し。憲法記念日のこの日になんで?と内心ぶつぶつ。
でも、かわいい娘の頼みには、文句も言えず。

今朝は忙しかった。
毎週火曜日は、早朝配達が2コースの日。朝4時にスタートし、6時に帰宅。30分の仮眠をとって妻と、高速を飛ばす。目黒区自由が丘から川崎への引っ越し。

引っ越し先は元住吉駅徒歩10分。ブレーメンという名前の商店街をとおり、1本右に入った通りで静かな住宅街。
部屋いっぱいに積まれた段ボールを次から次へと開けて片付け。
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お昼はブレーメン商店街で唐揚げ専門店で「唐揚げ定食」をいただく。いやー、これが美味い。近所にももう一軒唐揚げ専門のお店があった。ここは、唐揚げが名物なのかな?
食後に商店街を散策。いろんなお店があり、特に食材は豊富。手作りのお惣菜も種類がたくさんあったり、なんといっても、どれも格安だ。

元住吉駅は、武蔵小杉駅と、日吉駅の間にある。武蔵小杉駅周辺は、開発が進み、高層マンションが立ち並んでいる。日吉駅は、ご存知のとおり、慶応大学がある学生の街。
この街は落ち着いた雰囲気でいいですよと不動産屋さんに勧められたそう。近くには、広い公園もある。
唐揚げ定食があまりに美味かったせいか、私もこの街が大変に気に入った。
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夕方、一通りかたずけを終えた。電気、ガス、洗濯機、水道、食器整理などなどとりあえずの生活はできる。娘は、今夜寝るベッドを確保。まだまだ部屋中は、収納を待っている家具や小物がたくさんある。それは、楽しみながらかたずけて。

陽のあるうちにと、元住吉を後に上尾に向かった。

こんな何気ない家族の一場面。憲法9条があってこそ。

明日あさっては、いよいよ、我が家の片づけが待っている。





5月1日はメーデー。
第87回埼玉県中央メーデーが、北浦和公園で盛大に開かれました。

日本共産党上尾市議会議員団は、全員参加しました。
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糟谷珠紀議員、秋山もえ議員は、子供たち、家族も一緒。

たくさんの仲間たちとも会えました。
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7月の参議院選挙をにらみ、来賓の挨拶も熱を帯び、力が湧いてくるメーデーとなりました。

議員団全員の写真と決意をフェイスブックでアップしました。

なんと、100人もの方が、共感の「いいね」をしてくれました。ありがとうございます。
そして、100人目は、太田真季さんでした。
若き頃、アンサンブルケーナの渋谷公演成功のために共に苦労し、汗を流したことを思いだしました。

岡野純恵さん、ともしびの清水正美さん、山岸よしあきさん、近藤護さん、遠藤壌さん、素敵なコメントありがとうございました。
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つつじの花が陽の光を浴びてあまりにも鮮やか。ともにメーデーを祝っているようでした。
黒1点、頼りがいのある先輩議員の援助をうけて、早く一人前になれるように頑張っていきます。





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